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スパルタから虐待へと変わった言葉

昭和の時代

スパルタ という言葉でしたが

 

平成を経て令和になり

虐待 へと表現が変化しました

 

なぜこのような変化が起こったのでしょうか

 

正直言って わかりません

 

世論が変わったからとも思います

個人を守るための変化とも捉えられます

はたまた人が増えたため様々な利権が増えたからか…

 

頭の悪い私にもわかることは

 

人間という生き物が 少しずつ進化したことです

 

規模が大きい話ですが 明らかに地球の環境は変化しています

それに応じて 人間の価値観や考え方も変わってくるのも当然といえば当然なのです

 

戦争を経験した方は

「あんな辛い経験をあなたたちは知らないだろう。

本当に大変だったんだよ。辛かったんだよ。戦争を知らない人間であってほしいからこの悲劇を知ってほしい。」

私にそんな言葉をくれました。1人の人間に言葉として託してくれている。そんな気がします。

この時代のスパルタという言葉は「指導」だったそうです

指導という意味は ある方向への導き、教え ということです

そんな時代を経験したことで スパルタ ではなく 指導 という言葉に収まっていました

 

昭和を生きてきた方の話を聞くと

「戦争を知らないお前らは幸せだと言われてきた。だから自分は幸せだと思い込まなければならなかった。だからこそ 戦時中と比較されて厳しいことが当たり前だったし、腹立たしいこともたくさんあった。噛みついて 反発して。だから強い人間性を今じゃ考えられない方法で叩き込まれたんだと思うよ。」

学校の先生が生徒を殴るのは当たり前。先生が怖い存在の時代です

子どもの数が多いため、指導方法に体罰が用いられる「スパルタ」は常識でした

こういった体罰を経験した方の中には、理不尽さを抱く人は少なからずいたことでしょう

当たり前 という言葉にされることで整理してしまう

立場や権力、力あるものが実行しているという印象ですね

 

平成を主に経験した方は

「体罰はまだまだ自分たちにもあった。先生から殴られるのは当たり前だった。

でも少しずつだけど減ってきたと思う。先生が管理される側になったからかもしれないけど

より生徒を守ろうとする動きが活発になったからかもしれない。先生も生徒も犯罪者としてテレビに出てたから、学校の力がなくなった気がする」

学校や会社での「いじめ」が原因で自殺者があとをたたない

こんなニュースが毎日のように流れ

学校では道徳の授業で他人の立場や人の気持ちを説き

思いやりの心をもつ大切さを教えていました

 

理不尽な思いから心を病んだり、心理的・精神的苦痛をあたえられることが

間違いであるとして「虐待」が唱えられていきます

パワハラ・セクハラ などの言語が誕生し 今までの考え方は平成に受け入れられないようになりました

 

 

そして令和

個人の尊厳を大切にするべく世の中は動いています

しかし、それはあくまで表面上

見えない裏側では変わっていないものがたくさんあるのです

 

世の中は変わり、人々の考え方、言葉の表現の変化は時代を経て起こります

 

あと数年後に どんな言葉へと進化していくのでしょうね