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パブロ・アイマール を語る⑧

2001ー2002 2003-2004シーズンにバレンシアはリーグ優勝を果たします。アイマールはクラブに31年ぶりとなるタイトルを強豪ひしめくリーグで勝ち取ることに成功しました。

 

小さな魔法使い、バレンシアの天使という異名はスペインだけでなく世界中に広がり

“パブロ・アイマール”という名手はサッカー界の常識になります。

 

一方、相手チームにとっては悩みの種であり、なんとしても止めなければならない存在でした。

器用にボールを運び、すばしっこく、テクニックに優れた選手なので

手荒いファウルでしか止める方法はありませんでした。

 

バレンシアの攻撃の波は、アイマールを潰し、削ることでおさまる。

そのため、アイマールは足や体にダメージを負い

怪我が多くなっていきました。

必然と言えば必然・・・

サッカーは無常なスポーツです。理不尽なファウルを90分の間に何度も浴びせられば故障してしまいます。名手ならではの宿命ですね。

 

アイマールの負傷したシーズンに、こんな出来事があったのを皆さんはご存じでしょうか。

2004年の夏のプレシーズン。Jリーグの名門 アルビレックス新潟との親善試合のためバレンシアは来日しています。当然ですが、アイマールは負傷により欠場。

試合に出れなくてもスタジアムに来たファン、特に子供たちとの交流を大切にしていました。それは、自身がプロサッカー選手としての立場をわきまえた行動だったのでしょう。

さらに、子どもたちに夢を与えるために自身が着用していたブレスレッドを

「アイマール基金グッズ」として販売し、収益をアルゼンチンの病院などに寄付するという

活動をしていました。

 

プレーできないことでファンから出る不満も覚悟していましたが、募金活動をしているさなかに感じた日本のファンのマナーの良さや、もてなしに感動していたと言います。

ファンの笑顔に救われたアイマールでしたが、新潟の人々が辛い現状を抱えていることを

知ります。

 

2004年の7月新潟県三条市に記録的な雨が降り、崖崩れや市街地の浸水により

死者9名、重傷者1名、被害棟数10,935棟、被害世帯7,511世帯という甚大な被害。

 

胸を痛めたアイマールは

日本でのスケジュールを終え、バレンシアに戻ったあとに義援金を申し出たのです。

 

しかし

その3か月後の10月23日。新潟中越地震が発生します。

震度7、とてつもなく大きな地震でした。

 

ライフラインは寸断され、被災された方は余震に苦しみ、恐怖し、疲弊されていました。中にはエコノミークラス症候群で命を落とされた方もいました。当時のニュースでも、その悲惨さは伝えられています。

 

アイマールは11月に三条市に義援金103万3906円

新潟県災害対策本部にも義援金100万円を寄付。

さらにこんなメッセージを届けました。

 

「わたしにとって日本は特別な国です。日本人の礼儀正しさと生き方、今までにわたしに示していただいた尊敬と愛情、わたしが感嘆する国民であること、そして東洋だけでなく、西洋の国々を見ても手本だとすべき国のひとつだと思っています。両国の連帯感を生かし、ことしの夏の新潟三条市水害の影響が少しでも和らげることを望んでいます。大洪水がもたらした被害者や数々の家族の悲嘆を忘れさせるものはまったく存在しませんが、わずかでも救済金で、この悲惨な災害で家族を失った子どもたちを救助できることを願います。

また、不幸は単独では訪れないものだと言われます。ここにあらためて中越地震災害の被災者への救護、それから一致団結と希望のメッセージを送らせていただきます。このように今まで作りあげてきた絆(きずな)をさらに深め、また、近いうちにお会いする機会が来ることを願っています。良いときでも悪いときでも、わたしをはじめ、バレンシアサッカークラブは、できる限り新潟の人々と心はひとつです。

Pablo Aimar 」